本件のポイント

  • 戦時中、地蔵岳山頂にあった「蔵王高層気象着氷対策研究所」について、終戦時の資料から、航空気象(高層気象)の研究が行われていた。
  • 1960年代初めの絵葉書から赤い三角屋根であったことが確認され、1970年頃までは避難小屋として使われていた。
  • 1970年に撮影された航空写真の建物の撤去跡から、正確な位置と大きさがわかった。

概要

 戦時中、地蔵岳山頂にあった「蔵王高層気象着氷対策研究所」についての資料と写真が見つかり、次のことがわかりました。(1)終戦時の資料から、同研究所では航空気象(高層気象)の研究が行われ、終戦直後からは避難小屋として使われていた(2)1960年代始めの絵葉書から、研究所が赤い三角屋根の建物であることが確認できた。(3)1960年代のパンフレットから「東北大学 地蔵三角小屋」との名称で避難小屋として使われた。(4)1970年に撮影された航空写真に写っている撤去跡から、研究所の正確な位置と大きさがわかった。

 詳しくはこちら(プレスリリース)をご覧ください。

1.はじめに

 戦時中、蔵王山の地蔵岳山頂には「蔵王山測候所」と「蔵王高層気象着氷対策研究所」の2つの建物が作られていました。梛野榮司氏(95歳、山形市在住)が撮影した写真から「研究所」が見つかっています(図1)。「研究所」は赤い三角屋根だったとのことですが白黒写真のため判断できていませんでした。「研究所」は「測候所」から100mほどのところにありましたが、軍事機密のため、交流は無く、人がいるのかもわからなかったとのことから、正確な場所や大きさも不明でした。
 今回、「蔵王高層気象着氷対策研究所」について、終戦時の資料、1960年代初めの絵葉書と資料、1970年に撮影された航空写真が見つかりました。

2.昭和19年12月・昭和20年8月の資料

●天気 1998年 54ページ 「F.M.Exner著Dynamische Meteorologie翻訳後日譚」
佐藤隆夫氏(東北帝国大学講師)「昭和19年といえば生活環境は極めて劣悪であった上、陸軍将校に協力して体感温度零下35℃の蔵王山山頂で航空機の翼に氷の付着する研究に従事していた。」
「研究所」では昭和19年12月ころから着氷の研究が始められたことがわかります。

●地球物理便り 創刊号 1964年 22ページ 「北から南から地球物理の友は応える」(図2)
永井旺氏「・・・航空気象がやりたくてやりたくて、地物発足と同時に物理から転科した当時のことが目の前に浮かんできます。飛行機の着氷現象を調べると称して、加藤先生に同伴して厳冬の蔵王に登った事。昨今の蔵王と違い。戦時中のことでも有り、山に居るのは研究所と測候所の人々だけ、樹氷の美しさを堪能したこと。続いて蔵王山頂で迎えた終戦。・・・」
「研究所」で終戦を迎えたとあることから、航空気象(高層気象)に関する研究も行われていたことがわかりました。なお、この資料は山本希准教授(東北大学 地震・噴火予知研究観測センター)に教えていただいたものです。

3.1947年〜1950年の資料

●やまがた街角 10号(2003年) 「原体験はふるさとの雪の蔵王」
小倉董子「戦後間もない昭和22年1月、父(後藤幹次)とその山仲間に混じって、13歳の私は、蔵王スキーツアーに連れて行かれた。・・・ようやく測候所のある地蔵岳山頂に到達した。青い空に砂糖菓子のような建物が、可愛らしく、又、雪面のクラストした波状の模様がとても美しかった。・・・寒さと風を避けるために、荒れ果てた測候所の中に入り、凍りついたおむすびを頬ばる。・・・」
資料では、「測候所」に入ったと記載されています。しかし、「測候所」は昭和22年9月まで稼働していたことから、入ったのは「研究所」と考えられます。

●コーボルト 〜その五十年〜 昭和53年 フュッテン・ブーフより 201−202ページ
昭和23年(1948年)2月8日 鏡・広瀬・釜田・井上・宮山・福岡
「・・・モタモタしている中に正午になる。午後東北大の学生が研究所まで登る為に寄ったので早速雁戸行の為、研究所に泊めて貰う様に準備を整へ、三時迄に研究所に着く。風は大分強い。研究所の中はすべて凍り着いている。やっと火がついたと思ふと天上の氷が解けて水滴がポタリポタリ。グシャグシャに濡れた床の上に藁ブトンを出して寝る。寒い事甚だしい。明日晴れれば雁戸行を決定する予定。・・・」
凍結し荒れ果て状態とあることから、避難小屋のような形で(勝手に)使われていたと考えられます。

4.1960年代始めの絵葉書とパンフレット

1950年代、地蔵岳山頂に東北管区警察局無線中継所の鉄塔が建てられ、測候所と研究所の間に関連施設が作られました。また、1961年に蔵王ロープウェイ山麓線が、1963年に蔵王ロープウェイ山頂線が作られました。今回見つかった絵葉書やパンフレットは蔵王ロープウェイの開業に合わせて作られたと考えられます。

●絵葉書
*蔵王温泉
お地蔵さんから地蔵岳山頂を見上げたものです(図3・図4)。蔵王ロープーウェイ山頂駅の絵葉書も同封されていることから、蔵王ロープーウェイ山頂駅完成後である1963年以降に撮影されたと推定されます。写っている建物は、右から「測候所」「付随施設」「研究所」です。

*蔵王山大観
地蔵岳山頂、山頂からお地蔵さんまで下る山道が写っています(図5・図6)。また、お地蔵さん付近に蔵王ロープーウェイ山頂駅と思われる建物が写っていることから、1963年以降に撮影されたと推定されます。写っている建物は、奥から手前に向かって「測候所」「付随施設」「研究所」です。「研究所」は赤い三角屋根と言われていましたが、確かに赤い三角屋根の建物であることが確認できました。戦時中に赤い屋根は目立つと思いますが、「研究所」ではなく山小屋に見えて良かったのかもしれません。なお、赤い屋根の建物の形状(図6)は、戦前の白黒写真(図1)と同じであることから、戦後になってから大きな変更はしなかったと考えられます。

*蔵王エコーライン
熊野岳から撮影したもので、建物は奥から手前に向かって「測候所」「付随施設」「研究所」です(図7・図8)。赤い三角屋根の「研究所」が確認できます。この絵葉書は山本希准教授(東北大学 地震・噴火予知研究観測センター)に教えていただいた資料です。大判とのことでしたので1960年代後半ではないかと推定されます

●「蔵王連峰案内地図」
山形県・宮城県が発行した「国定公園候補地 蔵王連峰案内地図 1962」(図9・図10)、および、山形県・山形県観光協会・宮城県観光協会が発行した「国定公園 蔵王連峰案内地図 1963」の山小屋の項に「研究所」が掲載されています。名称は「地蔵三角小屋」、位置は地蔵山、管理者は東北大学、収容人数30名、宿泊・燃料・水・食事は不可、開設期間は年間となっていました。山小屋というより避難小屋の扱いです。

5.1970年10月7日の航空写真

1970年10月7日に国土地理院によって撮影された蔵王附近の航空写真(図11)から、遅くとも1970年には「東北大学 地蔵三角小屋」および「中央気象台 蔵王山測候所」が撤去されていたことが分かります。また、「地蔵三角小屋」があったと考えられる場所に建物があったことを示す四角い撤去跡が見えることから、建物の正確な位置と大きさ(おおよそ10mx7m)がわかりました。

今後の展望

 地蔵岳山頂は人気の撮影スポットですが、戦時中に「蔵王高層気象着氷対策研究所」や「蔵王山測候所」があったことは知られていません。戦時中の状況を伝えていく意義は大変大きいと考えられます。
 山形市立図書館では、2022年2月19日から3月19日まで「市民の出版物展特別展示」が開催され、「戦時下の蔵王展」も行われます。これまでに見つかっている「蔵王高層気象着氷対策研究所」「蔵王山測候所」に関する資料、および、今回見つかった資料を展示する予定です。